「+10・テンモア」+ 廖継春(リャオ・チチュン)+ 台北市立美術館|連名モデルができるまで - 日誌 - +10・テンモア|あなたと風を切って歩く|靴下の王国へようこそ

「+10・テンモア」+ 廖継春(リャオ・チチュン)+ 台北市立美術館|連名モデルができるまで

概念

 台北市立美術館 ◗  1983年に成立した台北市立美術館は、台湾で初となる公立の美術館。戒厳令(かいげんれい)をきっかけに止まってしまった現代アートを再び動かすため、そしてアートを人々の暮らしに入れるために設立されました。近年の「北美館(台北市立美術館の略)」は、美術館所蔵のアート作品を「皆が一緒に生活できる商品」に変換するという試みに取り組んでいます。

 

そして去年、私たち靴下王国に一通の招待状が届きました。


それは、コラボレーションのお誘いでした。私たちはその内容を見て、100%に近い自由度が与えられていることに驚きました。こちらが想像する以上に信用されていることが感じられました。もちろん喜んでお引き受けしました。

まずは美術館所蔵のアート作品の中から、どの作品とコラボレーションするかを選ぶところから始めます。希望する作品を順番に並べて提出しなければなりません。さまざまな要素を考慮しながら三日三晩選んだ結果、私たちテンモアは「廖継春(リャオ・チチュン)」にたどり着いたのです。

 

ある時、北美館の担当責任者である郁玫(ユーメイ)から、「あなたたちが希望する作品リストは、どれも古風なものばかりだった。このような先輩方の作品が靴下のデザインになれるなんて意外だったわ。」と言われたときには、思わず笑ってしまいました。だってしょうがないんです。美術史に大きく影響を与えた大先輩方の絵は、見れば見るほど感激するし、自分が初めて筆を握ったばかりのお子様のように感じさせるほどの力を持っているんだから。

 

 ●「+10・テンモア」と「廖センセー」とのご縁

 

 ◖「+10・テンモア」 + 廖継春 + 台北市立美術館◗ 
 

「+10・テンモア」と廖継春そして台北市立美術館らの間で方向性が固まった後、私たち靴下王国は大先輩である廖継春を研究するチームを設立しました。

資料映像の中でインタビューを受けている廖継春の学生と、そのまた後輩たち。
そしてその中にいる白髪で青白い顔のお爺さん先生。
みんなが『廖センセーのこれが〜』、『廖センセーのそれが〜』、とユーモアあふれる方法で先生の行動や作風を表現していました。

廖継春に関してはズブの素人である私たちでしたが、その映像を見た後にはなんだか同じ授業を受けたような感覚に陥って、廖継春の話をする時には同じように「廖センセー」って呼んでしまうようになりました。

このプロジェクトのデザインを担当した陳小爵は、作品を靴下に転換するためのヒントを探そうと、廖継春の様々な作品を隅々まで見ていました。そして廖継春が自分が好きな風景を、さまざまな光や異なる角度から何度も何度も描いていることを発見したのです。

ある日、陳小爵が川沿いを自転車で帰宅した時のこと。彼女は目の前にある山の輪郭が何かに似ていると思いました。
「これって廖先生の絵の中によく登場する、あの山じゃない!?」
何千何百回も研究者たちが話していた「台湾の豊富な水源、朝の夕暮れから柔らかく差し出す光の色調、自然に忠実なものではなく心の内側からの色と調和。それこそが廖継春が長年続けてきた写生の結晶だ」という言葉の意味がこの瞬間、はっきりと分かった気がしました。

 

 

『この世界は大きすぎて、君のキャンバスがどんなに大きくても入らない。だから君は君のキャンバスの中で君の世界を引き伸ばしていけ。』

 

 廖継春(リャオ・チチュン|1902-1976) ◗  日本統治時代の台中・豊原の農家に生まれる。家の経済状況はあまりよくなかったが、小さな頃から絵を描くのが好きだった。父親の記帳本の裏の空いている箇所をキャンバスにしていた。鉛筆は甥っ子を背負いながら町で揚げパンを売って買った。
1924年からは日本の東京美術学校(現在の東京芸術大学)」へ留学し、田邊至らのもとで学んだ。
卒業後、台湾に戻ってからは一生を教師に従事した。戦前には何度も帝国美術展覧会、台湾美術展覧会に入選し、共同で台湾最初の「全台湾」スケールの台湾本土の画会である「赤島社」を設立した。
戦後の二二八事件中に親友の陳澄波(チェン・チェンポー)と、長年彼にとても良くしてくれていた林茂生(リン・マオセン)先輩を亡くしてしまい、長い間筆を持たない時期があった。その後、彼の画風はリアルな印象派から抽象派に変わった。
中年から晩年までが美術教育に身を投じた。創造の自由に対して、開明で包容力がある人だった。教鞭を執るかたわら、現代絵画の中に新しい可能性を探り続けていた。人生の最後の瞬間まで絵を描き続けていたという。

 

細い糸と絵筆が交差する南国田園の詩―台湾 

 

廖継春が東京に留学していた頃、日本では「外光主義」が主流でした。屋外で作画することを提唱し、日光のもとで細かな変化を追求していました。それが理由で授業の中では写生の時間が多く取られていました。彼のしっかりとした写生テクニックは、この時に培われたものです。風景はその後、彼が最も好む題材になっていきました。

今回コラボレーションした2つの作品『墾丁公園(こんていこうえん)』と『港口』は、廖先生の風景写生の作品です。初期の印象派スタイルとは違い、景色を分解し、全ての感覚に訴え、油絵とクレヨンの鮮明な色調で、筆は荒れ狂ったように島々の溢れるばかりの生命力を描き記しています。

 

 ◖ 見比べてみよう!廖継春の原画:「+10・テンモア」デザイン◗ 

 

『墾丁公園』廖継春|
油絵、キャンバス|45×53cm
台北市立美術館所蔵/写真提供

『墾丁公園1:1ソックス』敬意デザイン|
42%綿 +41%ナイロン+14%ポリエステル繊維
+3%弾性繊維(ライクラを含む)|24-26cm

 

 

『港口』廖継春|パステル、紙|16.5×24cm|
台北市立美術館所蔵/写真提供

《港口3/4ソックス》敬意デザイン|
65%綿+18%ナイロン +14%ポリエステル繊維
+3%弾性繊維(ライクラを含む)|22-24cm 

 

 

大先輩から巡ってきた作画をどのように靴下にするか、難問ばかりです。

◯「+10・テンモア」として、どの程度のクリエイションを加えよう? どれくらい原型を保留するのが良いのだろうか?
◯ 北美館の目標「絵画の詳細なプレゼンテーション」を、どのように完成させよう? 
◯ どうすれば、靴下を編む機械の制限を克服しながら「+10・テンモア」らしいデザインをキープできるのか?


そして、デザイナーの陳小爵がたどり着いた答え。

 

▎編み物の短所は、編み物の長所で補うしかない。

 

 材質では ◖ 2デザインとも染色糸を使い、規律のあるグラデーションを出しました。編み物はどうしても機械の制限を受けますが、配色の工夫により原画の豊富な色使いを再現することができました。例えば『港口3/4ソックス』は違う色の糸を組み合わせることにより、地平線付近に浮かぶ水蒸気のグラデーションを表現しています。

 

 
 
『港口3/4ソックス』は
「禁針法」で網状の効果を作り、
太いラインの囲われたサークルの中に入れて、
画面の空間をさらに遠くへ押し込みました。

 

 
 
『墾丁公園1:1ソックス』の海面は
「禁針法」を用いて模様を横向きに編みました。
ソックス上の凸凹を利用して、
油絵表面にある独特の感触を作り出しました。

 

 

 配色では ◖ 各原画の色に忠実であることが特徴の「敬意デザイン」シリーズのソックスでは、廖先生があまり使用しない色を選んで加え、その部分の面積を引き伸ばしてみました。

「+10・テンモア」は靴下王国としてずっと「当たり前とは違った選択」を提供しています。

『墾丁公園1:1ソックス』敬意デザイン / 「+10・テンモア」 

『港口3/4ソックス』敬意デザイン / 「+10・テンモア」

 

 包装では ◖ 箱の中と外で、廖継春が絵画実験中に開拓し出した、味わえば味わうほど『よく使えるな!』と言われていたピンク色を選んだ。

 

今回私たちの大胆な実験は、すべて存分に廖継春の作品を表現することを目標として行われました。
色使いは自由ですが、構図はできる限り安定させています。

絵筆の出発点にある明るく麗しい台湾からは、さっぱりとした親近感が正にそこにあるように感じられます。それはまるであふれるロマンを持ちながら、きっちりスーツを着て外出し写生する廖センセーのようでもあります。

 

▎自分の両足を頼りに、

いつも南国の風景を心の中に描き込み、それを日々の生活で着込んでいこう。

 

すべての靴下の足裏部分に台北市立美術館のロゴが入った
「+10・テンモア」+ 廖継春 + 台北市立美術館のコラボソックスは、
台北市立美術館だけで独占販売中​です。


1Fスーべニールショップ|北美館の当日券を見せると、40元引きになるサービスを実施中。

 

1
數量
230
220